昭和51年08月02日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 道理に合う信心をせよとは仰っておられませんですね。せねばならぬと仰っとられます。せよと言われると何か抵抗を感じますねえ。せねばならんというのはどこまでも教えるということです。私共がそういう、例えば言う事を聞かぬ子は誰でも仕方があるまいが、時節を待っておかげを受けたらよい。本当に教祖様の場合あのこうせよという風に教導しておられないのですね。せねばならぬ言うならばその道理を説いておられます。
 ですから私共がそういう道理におうた信心を、させて貰わなければならないということは、もう限りなく進展して行く信心、限りなく育っていく信心、留まるということを知らぬという信心。人間は万物の霊長だから万物を見て道理に合う信心をせよと、限りなく進展して行く。まぁ先月そして今月と信心の焦点にさせて頂いとります、太くなるとか又は今月は豊かになるとかということでもね、だからもう限りが無いのです。限りの無い信心にお互いが取り組んで居る。しかも生涯かけての事であります。
 だからおかげは限りなく進展していく、いかなければならんのです。ところがおかげが停滞する、いや却って反対の方へなってくる。いよいよ道理に合わない事ですけれども、道理に合わない生き方をしておる事を悟らして貰うて、いよいよ道理に合う信心をしなければならない。もう極まりがない信心。太くなるいうことには限りが無い、豊かになるということには限りが無い。お取次を頂いておかげを頂く。
 確かにお取次を頂いておかげを頂くということは、お道の信心者信奉者がみんなお取次を頂くと頂かないとは、こんなに違うもんだということを体験して行く訳であります。ところが只それだけに留まって居る。お取次の働きがそこにまぁシャープな働きを見せる。本当に神様の働きちゃまぁいうならば凄ましいすごい。
 昨日の久留米の岡崎さんがここ二・三日参って来てから言われることは、もう親先生この頃お取次を頂くと頂かぬということの相違が、はっきり分かって来たとこう言われる。勿論商売をなさっておられます。今度土地を買い家を建てたりなさる訳です。でその勿論金融の事ですけども、とにかく銀行に行ってからでもです、お取次を頂いての時と頂いてない時というならもう本当に嘘のように違うんだと。
 だからそれはお取次の働きである。それはだから私共が一生お取次を頂いて、おかげを頂いて行くということだけの事であるけれども、それではなら道理に合うた信心とは言えんのです。只お願いをしさえすりゃおかげ頂く。只お取次を頂さえすりゃおかげ頂くではない、何処までも道理に合うた信心。例えば先月今月の焦点なんかね、もうとにかく太くなるということとか、豊かになるということがです限りないものですから、いよいよ太くなる事に精進する、いよいよ豊かになる事に精進する。
 そこにいうならば太い豊かなおかげと言う事になる。限りが無い。だからこの精進が止められない限り限りなくおかげは進展して行くという。しかもその上にお取次を頂いての事だという時にです、初めて私は万物の霊長としての値打ちというか、道理に合うた信心とはそういう事だと思うんです。勿論ここでは世の中には随分信仰もあり宗教もありますけれども、金光教の信心に依って教えを頂いたら、どんなに考えても道理に合わない教え、道理に合わない生き方をしておる宗教が。信心に沢山あると言う事であります。
 そういう意味でです、私は金光教の信心は道理に合うた教えですから完璧です。その完璧な教えを私共が完璧に頂こうとする精進と同時にです、お取次を頂いてお取次の働き、それを実感させて頂くということは、教祖金光大神の御神徳によるものなんです。いうなら教祖金光大神の御信用に依って、おかげを頂くのでありますねえ。けれども道理に合う信心をさせて頂いて、その今日は道理ということを太くと豊かにということだけに絞って申しましても。
 大きなおかげを頂きたいというて、心が小さい受け物でおかげの頂けれる道理がありません。頂いておるとするならばそれはお取次の働きに依って、金光大神の御信用に依って、天地金乃神様のおかげをね、頂いておるに過ぎないのであります。だからお取次を頂いてどうぞ太くならせて下さい、お取次を頂いていよいよ豊かな心を目指させて下さいという願い。お取次であるならばこれは完璧な道理に合うた、成程どういう大きなおかげでもどういう豊かなおかげでも頂けれる道がはっきりしてくると言う事が分かります。
 只今日は銀行に参りますか、ら今日は集金に参りますから、体がちょっと悪うございますから、人間関係がどうもおもわしゅうありませんから、もうそこにはもう本当にお取次の働きというものはです、素晴らしいタイミングを生んでいくのです。もう金光教のいうならばそのう独断場というていいでしょうね。お取次さえ頂いておかげを受けるということ。ところがそういうおかげはです道理に、例えば合うたということではありませんから、そういう信心の上に道理に合うた信心をいよいよ身につけていくという、もう分かりきったことなんです。
 豊かないうならば心に豊かな物やら金やら、それこそ優雅な信心生活がでける。しかもそれは限りがない。それには限りなく自分の心が豊になって行く事を願いとする信心。限りなく自分の心が太っていくところの信心を、身に付けて行かなければいけません。そこでそんなら太くもなりたい豊かにもなりたい。成程先生が言われる通りに、豊かなおかげを頂くためには豊かにならにゃいかん。大きなおかげを頂くためには自分の心が太くならにゃいかん。そこまで分かる。
 そこでんなら太くなる信心豊になるための信心。昨夜も申しました様に、人の「非」どもが目につくようではなりませんけれども、実は人の非が自分の事は分からんけれども人の足元の事はよく分かるのです。だからそういう時にですね、私は分からんで済むおかげを願わせて貰う、分かったら人の不行状を見てわが身の不行状になる事と教えられるのですから、あの人以上のいうならば乱れた自分ではなかろうか、汚い自分ではなかろうかと、例えば人の足元に気が付いた時に。
 自分自身をいよいよ反省させて貰い、自分自身の心が豊になる、それを肥料にさせて頂くと言う様な生き方を、本気で私は身に付ける事が具体的に、自分の心が豊かになっていく事だと思うです。まぁそういう手立てをここでは教えて頂く訳でございますけれども。今日私は万物を見て道理に合う信心ということを、大きなおかげを願うならば、大きゅうならにゃならん。豊かないうなら真善美の輝かんばかりの、生活をさせて頂きたいなら、私共がいよいよ自分の心が、真善美に叶うた心の状態。
 真とは真いうなら嘘のない生活。善とはね悪のない生活。美とは見苦しいね醜ですね、もののない心の状態をいうのです。嘘の無い悪の無い汚いもののない生き方を、いよいよ目指さして頂こうと決心さして貰い。しかもそれがいよいよ太く、いよいよ豊かになる稽古をさせて頂くならば、そしてその上お取次を願うのですから、間違いない豊かなおかげが頂けるということが分かります。今日は道理に合うということをそこに絞って聞いて頂いた。だから皆さんどうでも太らにゃいかんです。
 あの人があぁ言うたと言うた事が、もう心に引っ掛って堪らん、腹が立って堪らん、心がこまい証拠です。これでは自分は大きなおかげは受けられんと、先ず悟らして貰うて、そういう心から脱皮していく信心を、いよいよ本気でしなければならない。二・三日前に頂いた様に、いよいよ体質改善を願わなければならない。本気での体質改善を願うところから、同質のものであるけれども、本当に二人見るように自分が変わっていくのに、自分ながら驚く程の変わり方が出来る。
 先日森部の高山さんが頂かれたという、あの真善美体質改善の御理解を頂いた朝、御祈念の後に参って見えて、お夢を頂かれたというのですね、もうそれこそ合楽教会がもうどこまで広いやら分からん、もう道に親先生は何処に居られるか分からん。そこにちょうど繁雄おっちゃまが出て来なさったから、尋ねたらそんなら私が連れて行こうちいうて、もう曲がり曲がってずうっと奥の方へ、連れて行かれたとこであった。
 ところが途中に沢山なここの信者さんも、知ってる方もありゃ知らん方もある方達が、一生懸命豆腐作りをしておった。それがあんまり見事な豆腐だから、自分も一緒に作らせて貰おうと思って入ったところが、なかなよい豆腐が出けんから、よい豆腐がでける何かこつ具合いがあるなら教えて下さいというて頼んだ。そしたらその人が教えてくれたのが、これにはね昆布の出汁を入れるとが、こつあいですよいうて教えてくれた。豆腐でも大豆でも同質でしょうが。
 「それでもそれに喜ぶ、それをいうならばあれは豆を湯がいて摺る訳でしょうが。そしてそれに喜び、信心の喜びを入れてするのがいうならば大豆から豆腐に変わる、これが本当の体質改善である。だから信心のその喜びを以てすると、いうならば信心の体質改善がでける。大豆その物は変わりはないけれども、それがいわゆる様々に加工されてくる訳です。体質改善とはそういう事だと思う。それで小さい心の人が大きな心にもなり、豊でない人がいよいよ豊かな心ともなられる。
 それを様々にいろんな稽古をしたりね、剣道を身につけてそのう度胸を作って太くなるとか、まあお花とかお茶の稽古をさして貰うて、心が豊かになる様にと言う様な手立てもございます。けれどもそれでは本当な事ではありません。何というても体質改善は真の信心に依らなければ体質改善はでけません。現在のままでは現在のままのおかげですから。どうでもいよいよ太くならせて貰う、豊かにならせて貰うという事に、いよいよ焦点を置く。本気で体質改善を、いわゆるお取次を頂いてお願いをさせて頂くのです。
 本気にそこに取り組ませて頂いておかげを頂く。先日も申しました様に二・三日前に十年祭の事業の委員長をしとられます、久富正義さんがここでお届をされました、二・三日前。ここの周囲を全部その上の方まで買う様にしたいと思います。それでその交渉に当たるからとこう言う訳です。この頃上も一反余り買わせて頂いたし、もうそれだけあれば充分じゃろうごとある。けれども神様がいよいよそういう、大きなおかげを下さろうとして居るのだから。
 これはそげなこつは一っ時ばかり止めときなさいじゃなくて、これはいよいよ大坪総一郎、私にいよいよ大きくなれ豊になれと言うてござると思うたから、その事お願いしましょうという事に致しました。だから大きなおかげを下さろうとする働きがあるのです。お互いの上に、大きなおかげを下さろうとする働きがあるにも拘らず、大きくなろうと努めないから大きなおかげになっていかないのです。
 この位道理に合うた話があるでしょうか。だから本当に道理に合うた話を聞かせて貰うて、道理に合うた生き方を信心をしていかなければ、何時迄経っても信心が停滞したなりであります。しかもこれは太くなる事に於いても、豊になるという事に於いても限りが無いのです。そういう限りのない信心と、限りの無いおかげの頂けれる信心に、挑戦していかなければならんと思うですね。
   どうぞ。